Album
レビュー
アントニオ・ロウレイロが2018年秋に発表した『LIVRE』は、2012年の『Só』以来、約6年ぶりとなった本格的なソロ・アルバムである。その間、彼はアンドレ・メマーリやヒカルド・ヘルスとのデュオ作品を残し、さらにカート・ローゼンウィンケルの『Caipi』への参加とワールド・ツアーを経験した。そうした外部での活動を経て戻ってきた本作では、ミナス音楽の繊細な和声と多声的な歌を保持しながら、エレクトリック・ギター、シンセサイザー、重量感のあるベース、鋭く加速するドラムが前面に押し出されている。内省的な作曲家が、音楽を身体の運動へと解放した作品である。
ロウレイロの出発点はドラムと鍵盤打楽器にあり、ミナス・ジェライス連邦大学では、後に同世代のブラジル音楽を形作るハファエル・マルチニやアレシャンドリ・アンドレスらと出会った。初期作品では、ミルトン・ナシメント以後のミナス音楽に特徴的な、明暗を一つの和音の中に折り畳む感覚が重要だったが、『LIVRE』ではその語彙が、ティグラン・ハマシアン的な高速リフやプログレッシヴ・ロックの構築性、そしてKNOWER周辺のエレクトロニックな速度感へ接続されている。ただし、異なるジャンルを折衷しているのではない。複雑な拍節、歌の旋律、音響処理のすべてを、ドラマーの時間感覚によって一つの流れへまとめている点に固有性がある。
冒頭の「Meu Filho Nasceu!」は、息子が生まれた日に書かれた曲だという。生命の誕生を扱いながら、穏やかな祝歌へは向かわず、細分化されたリズムと重層的な声が前方へせり出してくる。その忙しさは不安定さではなく、新しい時間が突然始まったときの眩暈に近い。「Jequitibá」や「Resistência」でも、旋律は親しみやすい輪郭を保っている一方、その下ではドラムとベースが小節線を押し広げ、コーラスが和声の内側を漂う。複雑でありながら聴き手を拒まないのは、リズムの難度を誇示するのではなく、歌を浮上させるための推進力として使っているからである。
本作の制作ではロウレイロ自身の多重録音が大きな比重を占め、フレデリコ・エリオドロとの二人だけで構成された曲もある。ペドロ・マルチンス、ヒカルド・ヘルス、アンドレ・メマーリ、カート・ローゼンウィンケルらの客演も、ソロを披露するための空間としてではなく、緻密に設計された音像の一部として配置される。「Caipira」でのローゼンウィンケルのギターは、田園的な題名から想像される素朴さを裏切り、硬質なリフと歪んだ色彩をもたらす。一方、ジェネヴィーヴ・アルタディが参加した「Mad Man」では、英語詞とシンセサイザーが政治的不安を冷たい輪郭で描き、アルバムのブラジル音楽としての境界をさらに曖昧にする。
ここで重要なのは、録音が精密であるにもかかわらず、音楽が閉塞していないことである。DAW上で作り込まれた多重録音は、ともすれば各パートを無菌的に整列させるが、ロウレイロはわずかなタイミングの偏り、打音の重さ、声の重なりを残すことで、設計図の中に演奏の体温を封じ込める。生演奏と電子音、作曲と即興、個人制作と共同作業は対立しない。むしろ、自分一人で全景を統御したからこそ、客演者の個性を必要な地点だけで強く発光させられたのである。『LIVRE』は、ジャズのインタープレイを捨てた多重録音作品ではなく、インタープレイそのものを編集と配置の次元まで拡張した作品と言えるだろう。
音の感触を風景に置き換えるなら、森の中に建てられた鉄骨建築のようだ。声と和声には湿った土や木陰の柔らかさがあるが、その周囲をギターとシンセサイザーの直線が走り、ドラムが柱を高速で組み上げていく。にもかかわらず、建物は自然を押し潰さない。隙間から光や風が入り、複雑な構造であるほど外部へ開かれていく。この開放性は、誕生から抵抗、移動、政治的不安を経て、自由を歌うタイトル曲へ至る曲順にも表れている。最後に示される自由は静かな解放ではなく、身体を泥へ放ち、境界を崩す能動的な運動である。
一部の曲では情報量の多さが旋律の余韻を奪い、アルバム全体の強い推進力がやや単調に感じられる瞬間もある。しかし、その過密さは本作の弱点であると同時に、表現上の必然でもある。『LIVRE』は、ミナス音楽を現代ジャズやプログレッシヴ・ロックに近づけた作品というだけではない。歌、演奏、作曲、録音、編集を別々の工程として扱わず、一人の音楽家のリズム感覚の中で同時発生させた作品である。過去を参照しながら懐古へ退かず、テクニカルでありながら肉体性を失わない。その両義性をここまで鮮烈に成立させたことこそ、『LIVRE』の忘れがたい価値である。